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たとえば上野にあるパチンコ博物館館長のインタビューが、かなり膝ポンだった。現在のパチンコというのは、警察サイドが管理しやすいように、球が出る確率をすべてコンピューターで統制。パチンコの遊び方をひどく限定してしまっている。ゲーム性は皆無であり、いわばそれぞれの台が抽選箱みたいなもの。釘の具合とか、客の実力とか、そんなものは関係がない。そうなれば、客の目をひきつける液晶画面ぐらいしかウリがないという、業界の苦しさがまず浮かび上がる。その苦しい事情が「パチンコのアニメ化」へと進ませる第一歩となったらしい。

また一方のアニメ業界も苦しい。とくに資金面だ。高画質の地デジ化にともなって、DVDの売り上げの落ち込み(よっぽどお気に入りの作品ならともかく、そうでないものはテレビの録画で充分だとファンから判断されてしまった)が激しくなり、とにかく経営が苦しいという。パチンコとタッグを組むということは、どうしても「ギャンブル業界と結びつく」というダーティなイメージがつきまとう。それを拒むような体力が、業界にはもはや残されていないのだ。ジブリみたいな会社でもないかぎり。

格闘技番組などを見ているといつも思う。みんなが知っているあのアニメが、パチンコと組んで、そしてテレビで大々的に宣伝される。それは大変華やかに見える。「パチンコ業界、なんだかんだいっても娯楽の帝王やで。やることがいちいち派手やなあ」と。しかしそれは警察によって、液晶画面ぐらいしかいじれなくなったパチンコ業界と、売り上げ不振のアニメ業界による苦肉の策と読むこともできる。

一見すると、CMがばんばん流れる派手な世界に映るが、じっさいは自分の脚を喰らう蛸のようである。たとえば名作アニメ「マクロス」のパチンコのCMががんがん流れていた時期があったが、パチンコ台の発売自体はCMの二ヶ月後だったのだという。つまりパチンコファンのためのCMではなく、パチンコ店の経営者に台を買ってもらうためのCMなのだ。これはかなり異常なことに思える。流通させるための内輪向けのコマーシャル。お客さんのためのCMではないのだ。「CMをがんがん流した台だから」といって並べたところで、肝心のファンからそっぽを向かれたら終わりである。けっきょくマクロスのパチンコも、それほど大ヒットすることなく終わってしまった。

2004年にパチンコCMが流れた回数は2758回(在京キー局)。08年にはそれが17822回と6倍にふくれあがっている。ゲーム性のなくしたパチンコが、話題性を作りあがるために費やした回数である。しかしその莫大な宣伝費を回収するために、一体どこの誰が損を押しつけられてきたのかが、本書でもたっぷり描かれている。これが本当におそろしい。

情報伝達のスピード等ではネットに勝てないのなら、情報の解読力だとか、独自の見識で勝負したらいいですよね?いくら検索しても、一朝一夕では身につかないもので戦う。そんな書き手の気概が届いてこないのが、紙媒体不振の理由じゃないでしょうか。
38 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/03/09(金) 09:24:46.57 ID:de5giZJqO
日本のTVドラマとか邦画のクオリティが低すぎくだらなすぎつまらなすぎ三拍子揃ってるのはなぜ?

»38
俺は映画やれてないから言えた口じゃないけど

原因①シナリオ
日本:一人で短期間で仕上げる、シナリオの体系だった教育もなし
欧米:複数人で長期間で仕上げる、理論的なシナリオ創作論も豊富

原因②スポンサーの過剰介入
日本のPは「No」と言えないクライアントの犬ばかりです
おまけに金を集める力も薄すぎ、俺様ルールも豊富でwwww

原因③撮影など
日本:画面の垂直水平、特機のセッティング、微妙すぎる照明バランスなど、結果に表れない拘りが多すぎて時間を浪費+迫力に欠ける画面に
特に日本の撮影技術は、JSC(詳細はぐぐれ)などのせいで低下の一途
未だに宮川 一夫カメラマンが神でしょ。実際俺もそう思うし

原因④ポスプロ
単純にエディターが育ってない、感覚的に絵を切れる奴が少ない
あと、縦の編集(CGとか合成)技術が大体欧米の5年前の技術
これは恐らく、すぐれたマットペインターとかコンポジターが
海外に流出していると思われる(ギャラもいいし、派手な仕事は日本にはないから)

と上げればきりがないわけだが

特に、この10年ほど、文章などのテキストの閲覧消費の主戦場が、ネット上に変わったことによって、大きくもたらされた変化として「タイトル・見出し」の重要性が決定的になったことがその例として挙げられます。

例えば、かつてなら『an・an』のような女性誌において、「夏の恋」に破れ、打ちひしがれた女性向けに秋を迎えて、「さあ元気になろう!」というような特集が掲載されるとするならば、そのタイトル見出しは
「一夏の花火よ、サヨウナラ!深まる秋に心を磨く」
というようなものになるのかもしれません。しかし、Web上でPVを稼ぐように見出しを付けると
「夏の失恋から回復するための自分磨きの方法100」
とでもなるのでしょうか。なんだか説明的で文学的情緒がないですね・・・。しかし「夏」、「失恋」、「回復」、「自分磨き」「方法」というようなワードでの検索結果に表示されるため、あるいはソーシャルメディア上での拡散からのPVニーズを取り込むためには、前後の文脈を省いても、内容に興味を持ってもらうために、「見出し」はどんどんと説明的にならざるを得ないのです。

今朝もダメ社員たちから送られてくる遅刻連絡メールの遅刻理由のレパートリーに感心しているけれど、「ケータイを忘れたので取りに戻ります」というメールをケータイアドレスから送ってきたオマエはツメが甘い。
例えば、かつてなら『an・an』のような女性誌において、「夏の恋」に破れ、打ちひしがれた女性向けに秋を迎えて、「さあ元気になろう!」というような特集が掲載されるとするならば、そのタイトル見出しは
「一夏の花火よ、サヨウナラ!深まる秋に心を磨く」
というようなものになるのかもしれません。しかし、Web上でPVを稼ぐように見出しを付けると
「夏の失恋から回復するための自分磨きの方法100」
とでもなるのでしょうか。なんだか説明的で文学的情緒がないですね・・・。しかし「夏」、「失恋」、「回復」、「自分磨き」「方法」というようなワードでの検索結果に表示されるため、あるいはソーシャルメディア上での拡散からのPVニーズを取り込むためには、前後の文脈を省いても、内容に興味を持ってもらうために、「見出し」はどんどんと説明的にならざるを得ないのです。
大学時代一人暮らししながらネコ飼ってた
就職してずっとネコは実家に預けて殆ど忘れていたんだけど、ある晩何故かそのネコの夢を見た
夢の中で俺に甘えてくるネコを撫でながら、こいつ最後のお別れに来てくれたんだな、と急に気が付いて
「今までありがとうな」って泣きながら別れの挨拶をした

翌朝実家に電話したらそのネコ全然元気だった。
ふむ!RT
【本田△ = 本田さんかっけー!】
【本田(E) = 本田かっこいー!】
【本田□ = 本田氏かっけー!】
【本田(÷) = 本田かっこわりー!】
【本田A()C = 本田えーかっこしー!】
【(((【【【[[[本田]]]】】】))) = 本田かっこつけすぎ!】”

ナムコに入社して最初の頃に驚いた事の一つに「映画を見に行った時に映画代を経費で精算できる」という事でした。もちろん業務に関係あるかどうかによるのですが、気になった映画は何度か会社の業務の一つとして見に行った事があります。上司の許可があれば業務時間中に見に行く事もできました。

(なんて変わった会社なんだ、とその時は思いました)

ある時、僕はどうしても見に行っておきたい映画があったので、見たい映画を上司に伝えて、許可をもらってその映画を見に行きました。
映画を見に行った経費精算をするのにその「半券」が必要で上司に精算用紙にハンコを押して貰うのですが、その時の上司が「後ろはちゃんと見た?」とハンコを押しながら僕に尋ねたのです。

正直何のことかわからずキョトンとしていると、「映画を見ている時、スクリーンだけじゃなくて、後ろを向いてお客さんの表情を見てみた?っていう事だよ」と言われたのです。

この時、僕は自分が足りなかった大事な視点に気づかされました。

文字通り、映画を見に行ったなら、「後ろを見る」必要があったのです。
その映画に来ているお客様がどんな人か(若いカップル、年配の人、女性のグループ、カップル、男性一人客…)、どんなシーンでどんな反応をしているか…

ゲームを作る人がよく陥りがちな事ですが、資料として他社が作ったゲーム等を評価する時にゲームそのもののほうにどうしても注目してしまいます。映像の作りとか、ゲームのルールがどうなっているか、とかそういう事が、開発者目線でいうと気になってしまうのです。

しかしながら、実は本当に大事で、じっくり観察をしなければいけないのは、それを遊んでいるお客様の反応なのではないかと思います。

プロとしてはどんなにすごい技術を使っていても、どんな手間がかかった事をしていても関係なく「お客様の反応が全て」という意識を持つべきだと思います。これはゲームや映画に限らず、エンタテインメント(おもてなし)を生業とする人全てに言える事ではないでしょうか。